社会脳仮説からのダンバー数の導出が有名な進化生物学者のロビン・ダンバーの本。人類進化は証拠が非常に限られており、これまでも限られたピースを組み合わせて様々な説が考えられている。今回のダンバーのパズルの解き方は、時間収支モデルと社会脳仮説という2つの道具を用いて、より組み合わせを制限して推論の精度を上げるようなアプローチになっている。
社会脳仮説は極めてエネルギー効率の悪い脳を進化させたのは、複雑な社会集団への適応だという説だ。ダンバーはこの社会脳仮説から、新皮質の比率から霊長類の社会集団の規模を予測することができることを発見した。ヒトでは認知資源的に親密な関係を維持できる上限は平均150人前後とされ、これがダンバー数と呼ばれる。化石証拠では頭蓋骨からある程度の脳容量を予測することができるので、社会脳仮説は有用なツールとなる。脳の大きさによって、化石ホミニン種の社会集団の大きさ、生活史(脳組織は一定の割合でしか成長できないため)、メンタライジング能力などを推測することができ、さらに脳のエネルギーを賄うための時間収支に大きく影響する。
時間収支モデルは生物は生きていく以上必ず生じる時間的な制約を利用して共同体の規模を予測するものだ。食物探し、移動、休息は必ず必要だし、ヒトを含む社会を形成する霊長類では、集団を維持するために社交にも時間を割かなければならない。これらは降雨量、気温、季節にの3つの気候変数に直接決定され、現生霊長類の分布を高い精度で予測できるという。
霊長類が集団で暮らすのは主に捕食者対策だと考えられている。しかし集団で暮らすためにはコストを支払わねばならない。これは食べ物や安全な場所をめぐる個体間の争いなどの直接的なものから、共同体の規模に応じた食料探しのための移動、移動が増えると捕食者に見つかるリスクが増え、さらに増えた移動分のエネルギーも賄う必要があるなど間接的なコストも多数発生し、さらにはフリーライダーなどの裏切りの危険が常に伴う。霊長類では集団生活のコストは主に雌にかかる。集団生活から生じるストレスによって無排卵月経が増えるため、雌は適応度が下がる。共同体の規模が増えると雌はより小さな共同体で暮らしたくなる。捕食圧のためにどうしても共同体を大きくする必要がある場合は、霊長類はこれらのストレスになんとか対処しなければならない。
サルや類人猿は派閥を形成することで、他者の嫌がらせを封じることでストレスを解消する。この強力な関係の形成には相互に働きかける2つの過程があるとする。1つ目は毛づくろいによって生まれる深い感情を伴うメカニズムで、これには脳内で分泌されるエンドルフィンが関与している。2つ目は、毛づくろいによって長い時間を共に過ごすことによって作られる義務感を伴う関係で、親密な社会関係を結ぶことでオキシトシンなどの愛情ホルモンが分泌され、これが霊長類の社会性に重要な役割を果たすという。実際に、旧世界ザルや類人猿では、毛づくろいの時間と集団サイズが相関していることがわかる。1
アウストラロピテクス、ホモ・エルガステル/エレクトスなどの初期ホモ属、ハイデルベルク人やネアンデルタール人などの旧人、解剖学的現代人などの各進化段階で、考古学的・解剖学的証拠から推測された脳容量と集団サイズを維持するためにホミニンたちがどのように進化してきたのかを、時間収支モデルを通して検討していく。これは本当にパズルのピースをはめる作業のようで、例えば、ホモ・エルガステルの時代から火を使用して肉を料理することでエネルギー不足を解消してきたという、リチャード・ランガムの大胆な説がある。火を使用した最初の証拠もあり、確かに火を使うと栄養素の吸収率が約50%増えるので、脳容量の増加で時間収支を解決するが、ホモ・エルガステルの食性を変えるほど日常的に料理が行われていたと考えるには見つかる証拠がかなり少ない。それよりも、証拠が豊富な旧人の時代と考える方が自然であるし、何よりもエルガステルに火の使用というピースを使ってしまうと、旧人の急激な脳容量増加に伴う時間収支のパズルが解けなくなってしまう。このように各段階で数理モデルに基づき、各ピース(気候変動、二足歩行、不経済組織説、料理、言語、笑い、踊り、音楽、宗教など)をどのように当てはめていくかという検討を行っているのがこの本の面白い部分だ。
時間収支を解消するのに特にダンバーが着目したのは社交の時間だ。毛づくろいは1:1の関係なので、例えばヒヒは1日の行動前に毛づくろいのためにかなりの待機時間が生じているらしい。まず着目したのが笑いで、人類は大型類人猿と笑いを共有しているので、起源はかなり古いものであることが考えられる。ヒトの笑い方は、胸壁筋にかかるストレスによってエンドルフィンが産生されることがわかっている。自然に集団に笑いが生まれるときの人数は典型的には何人かということを調べた結果、予想よりは少ないが3人だということがわかった。2それでも、毛づくろいと比べると3倍の効率になる。
笑いとつながるのが歌で、平均110頭のゲラダヒヒは日中の36%を社会的毛づくろいに当てるはずだが、実際には平均で17%しかしていない。このギャップを埋めているのが、ゲラダヒヒの複雑な音声レパートリーではないかというわけだ。音楽性の中でも特に共時性に着目して、実験でタイミングを合わせた身体活動によってエンドルフィンの分泌を確かめている。旧人は料理とともに中間的な音楽を導入することで時間収支危機を解決したのではないかというのがダンバーの推測だ。
興味深いのはネアンデルタール人で、彼らは現生人類と同程度、場合によってはそれよりも多い脳容量を持つことで知られている。しかし現生人類にも当てはまる眼窩容量と後頭葉の相関などから、ネアンデルタール人は高緯度地域で視覚系に特化するために後頭葉が大きく発達したと考えられ、集団サイズに影響する前頭葉はさほど発達していない可能性があるようだ。そうなるとネアンデルタール人の集団サイズは小さくなり、発達した狩猟技術と火による肉食によって時間収支を解消したと考えることができる。これは、すでに高緯度地域で視覚系を発達させてしまったことが彼らの運命を決定づけたとも考えられる。
解剖学的現代人はネアンデルタール人よりも集団サイズが大きかったため、料理でこれを補おうとすれば食料の62.5%を肉と塊茎にしなければならない。これは現代の狩猟採集社会と比べてもかなり大きな数字だ。言語は非常に効率のよいコミュニケーション手段となる。重要なのは、会話そのものはわかっている限りにおいて、エンドルフィンを産み出さないことだ。ダンバーは言語と火の組み合わせを考える。火は考古学的アプローチでは調理と防寒にしか考えられてこなかったが、火は人工的な灯りになり、一日の活動時間を伸ばすことができる。この捻出した夜の時間に、物語や踊りなど言語なしでは不可能な社交に当てることができる。
その後、新石器時代の定住、シャーマニズムから教理宗教への移行、ペアボンディングなどの検討に移る。階層構造やメンタライジング能力など他にも重要な概念があるが、既にまとまりがなくなっているので割愛。駆け足で振り返ったが、各段階とも数理モデルに基づいた推測となっていて、多くを憶測に頼らざるを得ない人類進化が一段回補強されている感じがった。現生人類の絆形成で夜間に行われる物語についてはサン人の研究もあり、なんとなくキャンプで火を囲うと理由なくいい感じになる実感もあるのでなんとも説得力のある説でもありそうだ。
個人的に、ヒトにおける社会的毛づくろいの重要性と、言語が必ずしも事実を伝えることに特化しているわけではないということがためになった。合理的な設計をすれば共同体がうまく機能するかというとそうはならず、自分たちが社会を形成する霊長類であるという生物学的視点が重要になってきそうな気がする。