同じ著者の『進化と人間行動』の中で、性比に関する話題で参考文献として挙げられていた。性淘汰の中でも性比は面白そうだったので深堀りしようと思った。
一般向けに書かれた本なのでとても読みやすくて、性比の基本や議論を追いかけることができる良い本だった。有性生殖や進化の基本的な話も章を割いて解説されているので、特に前知識なく楽しめる本になっている。
多くの有性生殖を行う生物で雄と雌の性比は1:1に近いのだが、これに最初に進化的な説明を与えたのがロナルド・フィッシャーだった。フィッシャーの説明では、性を偏らせる遺伝子の適応度は集団中の性の偏りで変化するため、均衡点に落ち着くことになるというものだった。自然淘汰の多くはある環境に対して最適解があるものだが、性比のように集団中の頻度に依存して適応度が変化するは、このように進化的に安定な戦略に落ち着くというものだ。このときの数の単位は、個体数ではなく、親の投資量(フィッシャーは出費という言葉を使った)なので、片方の性の投資量に偏りがある場合は、それが安定性比にも反映されると予測され、体の大きさが雌雄でかなり違うハチの仲間では実際にそのようになっていることが確認されている。
性比に極端な偏りが見せる種についても、ハミルトンが局所的配偶競争を使って説明を試みた。フィッシャーの原理は集団が十分に大きく、集団内の個体はランダムに交配するという前提だったが、極端な偏りを見せるハチやダニの仲間では、同じ母親から生まれた兄弟姉妹が交配する極端な近親婚が起こっている。兄弟姉妹間で配偶者をめぐる競争が起きるということは、母親からすれば、雄を少なくして雌を増やすことで、自身の適応度を最大化することができる。このような種では、半倍数性という性決定機構で、母親が性別を決定することができるため、比較的容易に進化できたのだろう。
局所的資源競争という考えでは、母親が一方の性の子と資源をめぐって競争するような状況下では、母親は競争の少ない方の性の子を多く生むだろうという予測がたてられる。例えば、息子が出生地を離れ、娘が留まるという種では、母親と娘は限られた資源を取り合う競争相手ということにになるので、雄に偏らせる方が適応度上有利に働くことになる。北米のオジロジカではまさにこのような偏りがあったようだ。
鳥類の中には性的成熟に達した子が親元を離れずに親の繁殖を手伝うヘルパー個体というものが見られる。ヘルパーを抱える種では、生息地がほとんど飽和していて、若い個体が独立して縄張りを持てるチャンスがほとんどないことがわかっている。アカカンムリキツツキでは、雄が居残ってヘルパーになるが、性比が雄に有意に偏っており、雌雄で育てるコストは特に変わらないので、ヘルパーをたくさん持ったほうが親の繁殖に有利であるので生じたのだと考えられている。
トリヴァース=ウィラード仮説は、母親の栄養状態がよいときは雄を産み、栄養状態が悪い時は雌を産むのではないかという仮説だ。一夫多妻の配偶システムを持つ多くの哺乳類において、栄養状態がよい母親から生まれる個体は、栄養状態の悪いときよりも体が大きく育つ可能性が高いので、繁殖成功度の分散の小さい雌よりも競争の勝者がより多くの子孫を残せる雄の方がより適応度上の利益が大きくなるので、そのような性比調節が淘汰上有利に働くはずだということである。
トリヴァース=ウィラード仮説は、うまく当てはまっているような例もあるが、反対の事例も多く見られており、論争が多いようだ。雄の子が大きく生まれるかに母親の栄養状態以外にも様々な要因がある動物であったり、霊長類のような複雑な社会を形成していて体の大きさが単純に繁殖成功度につながるわけではないような動物などがそうであるようだ。著者はトリヴァース=ウィラード仮説は、それを実現できるような条件が整っているときには起こるのだろうが、おとなの雄のからだの大きさが繁殖上有利であることだけで、その過程が働くということはないだろうと述べている。
最後の章ではヒトの性比にも触れられている。人間社会でも多くの動物と同様、嬰児殺し・子殺し、あるいは十分な世話を与えないなどの手段による性比の調節は様々な文化で見られている。興味深いのは、進化的視点から見るとこれらの性比の調整は文化環境の中で適応度を最大化するような文化的な適応を見せていることである。過酷な運命の犠牲者の多くは女性だが、ケニアのムゴコトのように女性の方が繁殖の可能性が大きくなるために息子よりも娘が大事にされている社会もあるようで面白かった。