著者のジョージ・C・ウィリアムズは自然選択の基本単位は遺伝子であるという現代進化論の重要な考えを確立した進化生物学者だと理解している。『家畜化という進化』では、ウィリアムズの『適応と自然選択』において適応は「厄介な」概念であると述べていることを進化心理学は無視しているという批判があった。本書は1998年出版という古いものだが、ウィリアムズ本人が進化における適応についてどのように語っているかを知りたかったので手にとった。(あとめっちゃ安かった)
生物の精巧な仕組みは、ダーウィン以前の人々に全知全能の創造主がいるはずたと結論させるのは当然だったが、自然選択による発明者のいない発明は、機能的に洗練された特徴を生み出すだけでなく、気まぐれかつ機能的でない構造をも作り出すプロセスであることを強調している。たとえば、進化論否定派がこぞって用いる眼の精巧な作りは、一方で網膜の前に視神経があるために、盲点ができてしまったり、網膜剥離という医学上の問題が起きやすい。イカなどの軟体動物ではこのようになっておらず、機能的に行き届いている。このようになっているのは、自然選択が試行錯誤の歴史の積み重ねであり、系統的な制約を受けるからだ。
著名な古生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドは適応主義をキップリングの「なぜなぜ物語」のようなものであると批判したが、ウィリアムズは適応論的「物語」は重要な科学的発見をするうえで効果的な手段であることを、原題にもなっているヒイラギが発光する仕組みでうまく例示している。ヒイラギの発光腺とその背後にある反射板の役割をする器官は光を発するのにうまくできている。ヒイラギは普段暗い水の中に生息しているので、捕食者に見つかるとしたら少しの光でも影を確認できる下側からだ。したがって、捕食者が上を見たときにできる自分の影を消すためのカウンターシェーディングとして発光器が機能していると考えられる。J・W・ヘイスティングズが実験室内の水槽でこのことを確かめたのは1960年代だったが、現在では一般的に大海に生息する魚の多くによく見られる適応だと考えられている。
ヒイラギが光るのはどのような機能か、という問いが、グールドの「なぜなぜ物語」と違うのは、ダーウィン的制約に基づく問いだということだ。ここで語られているのはヒイラギとその生息地に関する既知の事実と合致しており、十分に立証された具体的なプロセスにのみ言及されている。ウィリアムズは、適応論的な説明はキップリングの「なぜなぜ物語」よりも推理小説のほうがよく似ているとした。シャーロック・ホームズが語る筋書きは、既知の事実を合理的に説明するだけではなく、まだ知られていない事実を予測し、その新しい事実を検証すれば、シャーロック・ホームズの筋書きが本当に正しいことを示すための証明までもが得られる。ヘイスティングズはヒイラギの生物学的な特徴に関する予測を立証したが、そうした事柄は、ヒイラギに関する適応論的な物語なしには発見されなかっただろう。
他にも進化に関したトピックがわかりやすく書かれている。現代では自然選択は、進化よりも進化が起こっていないことに関連して論じられることが多い。これは安定化選択がよく見られるということだ。ごくわずかでも方向性選択が起こったとすれば、それは一般に修正過程とみなされる。ちょうど併読していたエッセンシャル・キャンベル生物学でも同じことが書かれていた。また、「繁殖成功」よりも「遺伝子成功」のほうが相応しい表現だとした。進化における遺伝子中心の視点はウィリアムズの功績が大きい。
進化と老化に関する話が面白かった。人はみな、年をとること自体が死の原因となるのではなく、進化的適応を壊すような致命的な問題によって死ぬ。老化という現象が進化するためには、若い頃に実際に利益がある必要はなく、自然選択が、年をとってからよりも若い時期における不都合な影響を抑えるよに働くかぎり、若い時期に対する適応は年をとってからの適応よりもずっと効果的に維持される。老化という現象は適応的な機能ではなく、生物学的に適応的な差し引き関係から生じているといえる。
ウィリアムズがこの本で多く例示しているように、自然選択がもたらす洗練された機能的構造だけではなく、系統的制約から生じる機能的とは言えない構造も生み出している。適応はこのような「厄介な」概念であるが、検証可能な制約のもとで批判者の言うような「適応万能論」に陥らないように注意すれば、良質なリサーチ・クエスチョンを生み出す重要なアプローチであり続けるだろう。ウィリアムズの慎重な姿勢を節々に感じた。