Chimpanzee Politicsで有名なフランス・ドゥ・ヴァールが、豊富な霊長類観察事例を中心に道徳性の起源を探る本。ハミルトンの血縁淘汰説やトリヴァースの互恵的利他行動など、1960年代以降に動物の利他行動による進化を説明する理論が表れたが、人間の道徳性も他の動物と連続性が示唆されるという内容だった。
チンパンジーの「政治」などもそうだけど、ドゥ・ヴァールは本書でも「和解」や「慰め」など忌避されがちな擬人化された言葉を用いる。擬人化が忌避されがちなのは、人間と同じようなプロセスでその行動が起こっているのだと解釈してしまう危険性があるからで、実際に本書の中でも飼い犬が悪さをしたときにバツの悪そうな顔をするのは、必ずしも罪悪感を感じているわけではなく、学習のプロセスで説明ができることが書かれている。ドゥ・ヴァールは「擬人化した言葉は、それ自体で完結させるのではなく、真実を突き止める手段として使う」と検証可能な観察に到達するための科学的な態度としており、実際に本書の中の豊富な観察研究でも安易に投影させて終わるような単純な話ではないことわかる。人と動物の「何が違うか」に注目してばかりいると、共通点の重要さを見落としてしまうという、人と動物の連続性を重視する考え方は日本の霊長類学でもそうだな、と思った。
ドゥ・ヴァールは道徳性が進化する条件として、集団に価値があり、集団内で協力や互酬的な交換があり、集団を構成する個体がそれぞれ異なる利害を持つなどの条件を挙げている。確かに社会性昆虫は遺伝的利益を共有しているので集団を統制する規範は必要ない。一方、サルや類人猿では集団を維持しないと他の群れや捕食者のリスクが高まるため、個人の利益ばかり追求できず、集団を維持するための規範が生まれる。霊長類で見られる階層性が特に興味深く、アカゲザルのような絶対的なものから、チンパンジーのように下位者が同盟を組んで上位者に対抗し、公正なリーダーシップを求めるようになるなど、系統的にヒトに近づくにつれて、どのような振る舞いを「期待」するかということも人間社会に近いものになっていく。
最後の章で、動物と接する研究者の一人として人間が他の動物を好き勝手にできる権利があるという立場は取らないとしつつも、こうした問題を「権利」という言葉で扱おうとする試みにも反対の立場を述べている。この問題に関して、道徳性を水に浮かぶピラミッドに例えて、手に入る資源がピラミッドを浮かせ、水面から出た範囲が道徳性を発揮できる部分だとする。カルネアデスの板のような、究極的な状況では自分が助かるために他の人を殺す緊急避難が起こるような場面ではピラミッドはほんの少ししか出ていないだろうし、大量の資源が手に入るのであれば生きとし生けるものすべてが含まれるかもしれない。だが、人間の生活を中心に据えたものであることを忘れては、道徳性などたちまちばらばらにほどけてしまうと言っていて、これは近年のアニマルライツ系の動きを見てるとそうだなと思う。ドゥ・ヴァールはラディカルな議論になりがちな「権利」よりも「責任」という言葉を使ったほうがより穏やかな結論に到達できるのではないかと提起している。
放送大学の比較認知科学の授業も京都大学の霊長類学系の先生で、動物と人の認知機能の連続性がとても面白かったので、同じように連続性を重視するドゥ・ヴァールの本は面白く読めた。観察という研究法の可能性も感じられたので、他の本も読んでみたくなった。