初歩からの無職

クオリティ・オブ・ライフを追求した結果、ホームレスになった話をする

    こんにちは種延です。先日の退去エントリーからだいぶ立っていますが、現在は恵比寿近辺に生息しています。 恵比寿といえば、ガーデンプレイスがあったりなんだかおしゃれな町のイメージですが、実際におしゃれです。すぐ隣の渋谷に行くと一気に若者の町という感じですが、恵比寿に入った途端、なんだかアダルトな雰囲気に包まれます。若者は無理矢理にでも恵比寿3丁目に住んだほうがいいという記事もあったりしますし、住みたい町ランキングでは常にトップ10内にある町ですね。 なんか意識高い感じですが、人を変えるのに一番手っ取り早いのはやっぱり環境を変えることです。というわけで、僕もちょっと背伸びをして、この街に住んでみることにしたんです。路上ですが。

    恵比寿に引っ越すメリット

    通勤コストを削れる=自由な時間が増える

    僕は現在はギークオフィスで作業をしています。元々住んでいた元住吉(なんか語感がいい)も都内へのアクセスは非常に良いのですが、僕はどうも日比谷線に乗り換えて1駅区間だけでお金かかるのが癪なので代官山まで東横線で行き、そこから歩いています。というわけで、行き帰りで1時間+400円くらいはかかります。これ1月だと、20時間と8000円ですね。 通勤時間は通勤時間で英単語の勉強なんかもしてたんですが、なんともまぁ通勤時間いっぱいやっているわけでもないし、途中からは自転車通勤を始めたんですが、なんか雨降ってた日数のほうが多いイメージです。職場にシャワーがないのでその問題もあり、やはり通勤にかかる時間と費用をコストダウンできるのはとても魅力的です。

    恵比寿という強力なネームバリューを使える

    昔の友達とたまに連絡をとることがあるのですが、必ず「今何やってんの?」って聞かれるんですけど、「ああ、今は大体恵比寿にいるね」って言う強力な返しがアンロックされるんですね。おそらくスマホの向こう側では糞尿撒き散らしながら全身を痙攣させていることと思います。Amazonで買った一食あたり60円くらいのパスタを食べてもそれは「恵比寿でランチを食べた」ことになるのです。相手が膝を震わしながら糞尿撒き散らしてもおかしくないほどの価値を恵比寿は持っているでしょう。

    恵比寿の路上生活によってQoLが上昇するのではないか

    クオリティ・オブ・ライフという言葉がある。Wikipedia先生に聞くと次のような意味だ。

    クオリティ・オブ・ライフ(英: quality of life、QOL)とは、一般に、ひとりひとりの人生の内容の質や社会的にみた生活の質のことを指し、つまりある人がどれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生に幸福を見出しているか、ということを尺度としてとらえる概念である。 クオリティ・オブ・ライフ - Wikipedia

    主に医療関係で用いられる事が多いけど、重要なのは生活水準(standard of living)とは異なる概念ということだ。収入や財産が多ければQoLは確かに高まるだろうが、それは必ずしも必須の要素ではない。 上記の通勤コストや恵比寿に住んでいるというネタも要はQoLを高めている。都内はなんだかんだ色々なものが揃っているし、自由な時間が増えるということは最大のメリットだ。さらに路上生活ならば郊外に住むよりも月々の生活コストを下げることもできる。自由に使える時間やお金も増えるので、QoLも高まっているというのは、理論上は正しそうではある。

    なぜ今ホームレスか

    恵比寿は生活コストが高い

    都内はどこもそうですが、恵比寿もやはり家賃やら何やらが高いです。ボロボロのワンルームでも7万円くらいですね。 近辺のスーパーも大丸ピーコックや成城石井なんかのちょっとセレブリティあふれるブリリアントな躍動するラグジュアリーです。何を言ってるかわかりませんが、都内近郊のベッドタウンよりも生活コストが上昇することは間違いありません。 二級市民が恵比寿に住むためには一級市民なみの収益をあげるか、あるいは支出を切り詰めるほかありません。

    「住」を変えれば世界が変わる

    9ヶ月ほどギークハウスに住んでみて、色々な人にシェアハウスに住むことをおすすめしているのだけど、それは「住」意識が明らかに変化するからだ。 「シェアハウス私は無理だな―」って人に理由を尋ねると「プライベートな空間がないのは辛い」というような意見が9割以上(当社比)返ってくるのですが、これは部屋でオナニーできないのは辛いという意味になります。ほんまスケベやな。 断言しちゃうけど、こういうパターンのときは一人暮らしとシェアハウスを真剣に検討している人ってほとんどいなくて、つまるところ「プライベート」とやらを突き詰めるとそれってシェアハウスでも可能だよねっていうことが結構多い。シェアハウスは別にプライベートを犠牲にはしないし、あなたがプライベートだと思っているセックスやオナニーや読書や勉強といったものは大体アウトソーシング可能なものばかりだ。 シェアハウス的な生活が可能であるならば、一人暮らしは実は無駄にまみれたとてつもなく豪勢な生活だということが分かる。もちろん、シェアハウスと一人暮らしを比較検討したうえで、それでも一人暮らしに資本を投下する価値があると判断する人もいて、その人は真の一人暮らシストなのだろう。 シェアハウスに住んでいる人は所有するものが少ないのでフットワークが軽い。その分世界が広がっている。住意識が変わるだけで世界が変わっちゃうっていうのは全然大げさな表現ではない。

    住コストは住機能をアウトソーシングすることで下げることができる

    シェアハウスは「住」から「家族だけで住む場所」「一人だけで住む」といったプライベートな要素を取り除いたものとも言える。「住」という要素は書ききれないけど、空間的な機能としては大体次のようなものがある。

    • 荷物を置く
    • 体を洗う
    • 衣類を洗う
    • 食べ物を食べる
    • トイレをする
    • 作業をする
    • 寝る

    例えば、「風呂無しトイレ無し」のアパートなんかはその分家賃が安かったりする。それらの物件は共同の設備があったり、あるいは外部のサービスの理由を前提にしている。「住」から要素をアウトソーシングすることで「住」コストを下げることは可能なのだ。 そこで僕は思ったんだけど、極限まで切り詰めれば首都圏でも住めるのではないかと思った。家に本当に必要な機能だけ残せば後はいらないのではないかと。荷物はいるものだけ所有すればいいし、体はフィットネスジムのシャワーを使えばいいし、衣類は手洗いやコインランドリー、食べ物は外で食べる、トイレはコンビニや公園やオフィス、作業はコワーキングスペース。そう考えていると最終的に残るのは実は寝るという要素だけなのである。

    「寝る場所」って本当に必要?

    ここで果たして「寝る」は削れない要素なのか疑問が出てきた。「いや、外で寝るのはさすがに無理でしょ」と片付けるのは簡単だけど、それは「プライベートがないからシェアハウスは無理」と実は全く同じで、内容を精査した上で比較検討しているわけではないことに気づく。そもそも「衣食住」がなぜ生活の基本なのかということを僕はまだ理解していないということに気づく。 日本にはすでにこの生活を実践している人達がいて「路上生活者」だとか「ホームレス」などと呼ばれている。日本国憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」というのは彼らのことを指している。このあたりはプログラム規定説だの何だの法学分野では色々むつかしいことを言っているけど、もし生存権で謳っている生活が新宿中央公園や宮下公園に住んでいる人達ではないというのであれば、それは現在の福祉が不十分だということだ。 ともかく、実は僕は上京するときに貯金が100万円を切った段階で路上生活のノウハウを得ておきたいという目論見もあった。僕は順調に行けば、1年以内にはホームレスにならざるをえないと考えていたし、実際にそのルートをたどっている。いつかホームレスになるのであれば、路上生活の知見を得ておかなければならない。 寝る場所という機能さえ必要なくなれば、いよいよ家を持つ必要もなくなる。実際に貯金も100万円を切ったので僕はホームレス実験を9/4に実行に移した。

    これからホームレス生活の知見を共有していく

    というわけで、実際にホームレス生活をはじめて3週間ほどがたった。初日から発見の連続だし、都会は様々なサービスを利用することで便利に過ごすことができたりとある。もちろん、いいことだけではなく、解決すべき課題や問題もある。 とりあえず今回はホームレス生活を実行に移した経緯を簡単に説明するだけにとどめて、また別の記事でそれらの知見を共有しようと思う。 余談だけど、ホームレス生活を実行に移した後に、坂口恭平という方が全く同じことを考えていて既に実行していることを書籍で知る。どの分野にも先駆者はいるものだなあと思いつつ、内容もすごく共感できるしより深く考えられているのでおすすめです。