初歩からの無職

キャンプはなぜ楽しいのか - 知識を知見にしていく

    キャンプは非日常を楽しむものらしい。現代は手で少しひねれば火がつくし、照明のおかげで1日の時間は劇的に伸びている。そして、僕たちはなんとなくそれが科学の発展によって得られたものだということを知識として知っているし、それがない頃はなんとなく大変だったということも知っている。

    すでに知っていることなのになんでキャンプはこんなに楽しいのだろう。結果はわかりきっている。薪に火をつけるのにものすごく苦労するだろうし、どうせ外で食べるというのは気分も高揚して美味しいだろうし、テントで寝るのはベッドで寝るのよりも辛いけどなんだかワクワクしてしまうに違いない。結果のわかっている映画を見ているようであるが、それでもなぜか僕たちはよほどのことがない限りキャンプは楽しく過ごせてしまうことも知っている。

    似たような言葉に知見という言葉があって、これは実践による経験に基づくナレッジのことを言うらしい。知識は得るハードルは今はものすごく低くなっていて、Googleに聞けば大雑把な内容くらいはすぐに手に入る。客観的情報である知識はシェアするのも簡単だ。でも、情報が溢れまくってるこの時代でも、主観的な情報である知見というものは、なかなかに貴重なものだったりする。買った理由や感想に何個の理由とタイトルを書けば、それなりに読んでもらえたりする。主観的な感想はなかなか手に入らないからね。

    結局のところ知ることはめちゃくちゃ楽しいのだ。想定通り火をつけるのに苦労して、想定どおりめちゃくちゃうまいものを食べて、結構想定以上に暗くなるのが早くて何もできないということに驚いたりする。結局、他の人や先人たちが獲得してきた知識を自分のモノにしていく作業がとても快感だ。僕が家を持たない生活をしているのもそうだ。誰も知らない新たな境地を開拓したわけではないし、誰もが一度は考えたことはあるだろうし、実際に何人かは実行に移しているから、なんとなく知識としては得ているけど、やはり知見として獲得していくのが楽しいし、面白い。

    週末に山田大橋キャンプ場というところに行った。メンバーはギークハウス関係の人だったり、シェアハウス系のイベントで知り合った人だったり。よく会う人と久しぶりの人と初対面の人がちょうど同じ人数比くらいだった。それぞれとも濃い時間を過ごせたので楽しい。女の子もいるからね。

    調子にのって薪をくべていたせいで、翌日のために水をかけずに火が止まるのを待つと、時刻は0時を過ぎていた。上のログハウスに泊まっている大学生と思しき若者たちが、本当に気でも狂ったのかというくらい馬鹿騒ぎをしている。下のキャンプ場は僕達の他にも小さい子連れの家族がいる。血気盛んな若人どもに注意するリスクを大義が上回った。成功の暁には種延の評価はうなぎのぼりであることは疑いの余地はない。女の子もいるからね。

    本当に薬でキメまくっるんじゃないかというくらい叫びまくっている。ベランダを見ると少し大人しそうなやつがいたので彼に話しかけることにした。怖い人しかいなかったら僕は回れ右していただろう。

    「あの、静かにできないんですか?」

    「どこの人ですか?」

    この一言に僕はちょっと頭に来てしまった。

    「静かにできるのか、できないのか聞いているんですけど」

    大学生と思しき人はすみません、と一言だけ言って奥に消えていった。狐に取り憑かれていたとしか思えない男たちも大声をだすのをやめた。収穫は大きい。よくよく考えると二棟のログハウスが貸し切り状態だったので自分たちだけだと思っていた可能性が高いし、いきなり薄汚い髭面のおっさんがベランダの下から話しかけてきたのでお前誰だよ感満載だったのだろうが、そんなことはどうでもいい。

    キャンプに戻った僕は事の顛末を冷静かつ迅速に伝える。ここ5年くらいで初めて人に褒めてもらえるようなことを行ったと自負していた。

    「見に行くだけのつもりだったけど、注意しちゃったよ。分別のある若者でよかっ」

    言い終わる前に僕は片足をぬかるみに取られ、バランスを崩し、泥まみれになってしまった。僕の人生のようだった。